「先送り」する力

年末に大掃除や大晦日などの区切りをつけて一年に区切りをつけることで、人は年月の流れを感じます。

しかし、年末年始を迎えなくても月日は流れており、日常と年末年始などの節目に違いがあるわけではありません。

そういう意味で、心掛け次第では、毎日を人生の節目として過ごすこともできます。

しかし、そうは分かっていても、日々の中では、何か新しいことを始めたり、今までやっていたことを辞めたりすることについて、先延ばしにすることがあるかもしれません。

「先延ばし」は悪なのか?

ところでこの「先延ばし」について、「先延ばし癖を治そう」、「即行動しよう」「時間に限りがある人生、立ち止まっている暇はない」などと言われるように、悪者扱いにされがちです。

しかし、この先延ばしは、本当に悪いことばかりなのでしょうか?

「即行動しても、そもそもの選択が間違っていたら意味がない。だから考える時間が必要」

ということがよく言われますが、ここで使われる「考える」の意味は一歩踏み込んで考えなければ勘違いをしてしまうかもしれません。

「即行動」は善なのか?

現代は、情報日々飛び交う時代ですから、選択肢に事欠くことはないと思います。

一方で、多くの人々が自由に情報を発信している現代では、意味の無い、中身のない選択肢が膨れ上がっています。

当然ではありますが、その選択肢を発信している人には意図があるわけで、その意図を見切った上で選択しなければ、思わぬ結果になってしまうかもしれません。

「即行動しても、そもそもの選択が間違っていたら意味がない。だから考える時間が必要」

は、この間違いを回避するためのものですが、そもそも何が正しいか、間違っているかの基準は何でしょうか。

それは、

「今まで触れてきた情報」によって生み出されています。

「何を選ぶか?」という自分の選択基準自体が、今まで選択してきたことによって作られているということです。

ということは…

判断基準が変わっていないならば、何かを選択しても、今まで選んできたものの延長線上になるわけで、そうすれば、当然結果も今まで選んできたものの延長線上になります。

「先送り」する力

では、判断基準を変えるにはどうするか?

これは、行動のスピードを上げることによって得られるものではなく、むしろ 考える前提としての認識を変化させる時間として

「先送り」する力

が重要になっていると思います。

ビジネスを作り上げたり、人生に大きな変化を生み出すためには、今までの自分の判断基準が変化しない限り、現在の延長線上の結果しか生まれ得ません。

「教養」に関する書籍などが増えてきた背景には、この目の前の選択肢や現象に反応せず、認識が変わるレベルの思考力を手に入れるために、健全な「先送り」する力が求められていることが一つにあるのかもしれません。

(ちなみに余談ですが、そういう意味で、今まで価値観や認識のままで教養や哲学の書籍を読んでも、さほどの変化はないはずです。)

塾長が関わるエグゼクティブ層が教養や哲学に関心を示すのは、人類約2,500年の知の体系に触れることによって、目の前の現象に振り回されないためでしょう。

このことが、ビジネスの更なる成長だけでなく、その人たちの立場や理想を守ることになるからに他なりません。

*

そのため、先送りを止めようとする前に、「先送りの質」をいかに上げるか?

に向き合わなければ、今までの延長線上の思考からは抜け出せないのではないでしょうか。

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この記事を書いた人

(プロフィール非公開)

哲学をディープラーニングしたAI的なもの。その血も涙もない論理展開は、聞く者を「ロジカル・ハイ」の世界に誘い、頭にこびりつく常識を引き剥がす。

西洋哲学塾 Open Campusのガイド役的な存在も兼務。

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