【特別寄稿】壊れゆく時代の成功法則

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壊れゆく社会、荒ぶる人々

今、確実に社会は壊れてきています。

前に立つものは足を引っ張られ、少しでも目立つと攻撃され引きずり下ろされる。人々は思いやりのかけらもない自分本位の善悪で他者を攻撃し「議論」という名の罵詈雑言の投げつけ合いが横行しています。

でも、これは誰か個人が悪いわけではなく「誰もが発言の機会を手にしてしまった」という大きな構造の変化に原因があります。

かつては、公の場への発信は限られた人の仕事でした(もちろん、それが良いか悪いかは別として)。でも、テクノロジーが発達して、誰もが発言の機会を手にしたことによって、その「負の側面」の方が目立ってしまっている状況です。

揺り戻しとしての教養

一方、最近では、書店でも「教養」や「考える力」をタイトルとした本が多く並ぶようになりました。

2010 年代まではビジネス書もどんどん薄く、そして字が大きくなる傾向がありましたが、その流れに逆行し「教養」や「思考力」に焦点を当てた本も数多く出版されています。

その背景には、私は、上で述べたような「劣化する社会」への反動があると考えています。

本来、世の中の物事は簡単な善悪で割り切れるものではないですし「薬」と「毒」が表裏一体であるように、何事も確定的なものはありません。

このようなことを直観的に理解している「心ある人達」は、単純で乱暴な議論、正論からのマウンティング、感情垂れ流しの意見が幅をきかせる世の中では黙らざるを得ません。

そもそも話が噛み合わないし、疲れるし、エネルギーを吸い取られるし。仮に論破したとしても独りよがりな感情を浴びせかけられるし。そこからは何も創り出されないと知っているからです。

「本質的な学び」を求める需要

目立たぬように、はしゃがぬように、様々な利害関係の中で構造を見通し、辛抱強くしっかりと仕事を進め、成果を出していく。そのような真っ当な「オトナの社会人」のみなさまは、常に本質的な学びを求めています

そこに出版社やメディア側は一定の需要があると踏んでいるはずであり、近年の「教養」や「思考力」ブームの背景にはそういう構造があるのではないかと私は分析しています。

ペラペラの「ビジネス書らしきもの」と「本格的な教養書」は今後さらに二極化していきますし、そして、それを読む人達も二極化していくでしょう。

時代がどんどん劣化している現代だからこそ、教養を深め、思考力を磨く意義は大きいです。ですので、ここまで読み進めていただいているあなたは本当に素晴らしい。

でも、ここで一つ大きな問題があります

私達が「教養」について知っていること

その問題とは、そもそも私たちは「教養」について何も知らないということ。

「教養」といえば、おじいちゃん経営者が出てきて「歴史を学べ」と言ってみたり、アーティストが出てきて「アートに触れろ」とか言ってみたり。

あるところでは「東洋思想だ」とか、また別のところでは「論語だ」「人間学だ」とか、いろいろな事が語られます。

もちろん、それらも確かに「教養」という言葉が指し示すものの一部でしょうが、「教養とは何か」という全体像は何も説明していません。

「「教養」とはそもそも何を目的とするもので、どういうものなのか」ということについてメタ認知(一つ上の次元から理解)できていないと、私たちはいくら熱心に教養を学んでも、大きな落とし穴にはまってしまいます

次のステージへの階段は、今の視座からは見えません

資本主義に汚される「教養」という記号

私たちが「教養について」を知ることができない理由は、一言でいうと、それが体系的に提示されていないためです。

物事を理解するためには、全体像と各要素の関係性を理解しなければなりません。

でも、そんな地味な説明をしても本は売れませんし、視聴率も上がりませんし、Web ページへのアクセスも上がりませんので、出版社や大手メディアは「教養」に関して、需要のありそうなところをコンテンツとして抜き出し、販売するという「合理的」な行動に出ます。

あるいは「教養」という言葉にプラグマティックな(実利的な)フレーバーをつけて売りに出す(「教養は稼げます」的な)行為を取らざるを得ません。

受け取り側の問題

一方、それを受け取る側も、「教養」という概念が資本主義社会の中で商業ベースに乗って販売されていることで、まちがった受け取り方をしてしまっています。

というのも、私たちはなんとなくの常識として、お金は「製品やサービスの対価として支払われるもの」という考え方をもっています。ですので、お金を払うと何か自分の欲求を満足させてくれるモノやコトが手に入ると思い込んでしまいます。

一方、「教養」とは、人に考える機会を提供するものですので、仮に歴史やアートなどの「知識」を得て賢くなった気になってもそれは何ら教養の核心には触れているわけではありません。

で、あるにもかかわらず、私たちは「教養」をその辺のモノやサービスと同じようなものとして誤認し、カネの対価としての「知識」を得ようとして、まるで「スタンプラリー」のように教養にまつわる知識を収集の対象にしてしまいます。

そんな断片的な「知識」だけ知っていても何の意味もありません。いや、むしろアスリートが無駄な筋肉をつけて動きを鈍らせるように、頭でっかちになって「知識」を振り回し、行動を鈍らせるだけ。理屈だけは立派で何も行動しないオトナはあなたの周りにも掃いて捨てるほどいますよね。

資本主義思考によって汚れた教養ほどタチの悪いものはありません。

「リベラルアーツ」という言葉

さて、全体像を知るためには、その起源を知らなければなりません。

「教養」の語源、オリジナルは「リベラルアーツ」という言葉です。リベラル(=自由)という言葉がついているのは、古代ギリシャにおいて奴隷にならないために必須の学問であるという位置づけだったからです。

そして、その筆頭が「哲学」という学問。

全体を俯瞰して他の学問と比較したとき、哲学の特殊性は際立っています。それは、哲学だけが「学問をつくりだす学問」であり、それによって哲学が知の最上位に位置していること。

古代から哲学は人や世界の本当の姿を知るために、何もないところに好奇心を持って疑いを立て、問をおこし、考えを深め、様々な学問をつくりだしてきました。

その結果、物体の運動について知りたいと思ったから「物理学」が生まれ、物の性質を知りたいと思ったから「化学」が生まれ、人の心を知りたいと考えたことで「心理学」が生まれました。

こうして産み落とされた各学問分野の仕事は、哲学から生まれた問題意識から委託を受け、様々な実験などで理論を実証して正しさを確定させていくことですので、哲学とは思考の方向性が違います。

言うなれば、哲学は「知の企画屋」。

哲学だけが根本から疑いを立て、問をおこし、考えを深め、新たな「知」を創り出す学問であり、哲学だけが「知」を一段上の次元から見る(「メタ認知」する)学問なのです。

リベラルアーツ、すなわち「教養」という言葉も、本来はそのように捉えられるべきもので、「教養」とは知識のスタンプラリーではなく、疑い、問をおこし、考えを深めるための方法論であり、その基礎となる知識体系のことです。

そして、これこそが、汚れのない純粋な教養であり、私たちがお伝えしたい「哲学」という学問分野の姿です。

誰もが使える高抽象ノウハウ

さて、かなり前置きが長くなりましたが、では、この話が私たち一般人にとって何の意味があるのでしょうか?

私たちは学問をしたいわけではありませんし、ましてや、哲学者になりたいわけでもありません。

私たちは、ビジネスや日々の人生を必死に生きぬいているひとりの社会人です。目の前のビジネスや、日常に役に立たない学問など、私たちの人生にとって何ら存在意義はありません。

もちろん大丈夫です。その点はご安心ください。

私たちは哲学者のように、世界に対して根本的な問をおこしてその答えを見つけ出す必要はありません。

私たちのやることはただ一つ、そのような深い問と思考を繰り返してきた哲学者の思考の肩に乗り、彼等の見いだしてきた「命題」を理解し、使うことができれば良いのです。

哲学の知識(命題)は過去の偉人達が人生をかけて凝縮してくれた「高抽象ノウハウ」とも言える「知」の結晶、これを使わない手はありません。

「巨人」の肩に乗る

人と世界の本当の姿を明らかにするために、知の鉄火場、論理のコロシアムで真剣勝負を繰り広げてきたのが「哲学者」という人種。彼等が残してきた仕事には、常識を疑い、問をおこすための方法論がまるで宝石箱のように詰まっています

これらを基盤として行うのが「哲学思考」。

疑いを立て、問をおこし、深く考え、新たな考えを創り出していくための思考法です。

私たちの凡人の発想なんてたかがしれたもの。哲学を学び、過去の天才・偉人(巨人)達が命を削り、人生をかけて考えてきた思考に便乗させていただくことで、私たちは、人や世界の本当の姿を見通す思考法を手に入れることができます。

それが私たち社会人にとって哲学という学問を学ぶ意義。

そういう意味では「哲学」は、現実世界で地に足をつけて生きている私たちにとっては「究極の実学」と言えるでしょう。

「哲学思考」を身につける意義とは

私たちが、哲学を学び「哲学思考」を手に入れる意義をもう少し深掘りしていきたいと思います。

少し実社会に投影して考えてみましょう。

現代的には、何者でも無いひとりの人が、力をつけ、社会的にも認められていく道というのは大まかに見て二通りあると考えています。

  1.  一つの道は大きな組織のヒエラルキー構造(ピラミッド型の階級組織)の中で地位を確立していく道
  2.  もう一つの道は、起業して自分の力量で地位を確立していく道

組織で地位を確立していく道

私自身は現在、①の世界で経営者候補のリーダーシップ開発に携わっています。

そこで感じるのは、大きな時代の変化。

ヒエラルキー構造がしっかりしていて、上の言うことを忠実に守っていれば出世出来たかつての時代とは違い、現代は、世の中が急速に流動化し、これまでの考え方では外部環境の変化に対応出来なくなってきている現実があります。

そのような時代に求められるリーダーには、当然、前提を疑い、問をおこし、思考を深める「哲学思考」が求められてきますし、実際に企業もそのような観点から幹部候補の早期選抜を行っています。

平成に入り我が国が負け続けている理由は(世の中的にはまだしっかりとは言語化出来ていませんが)哲学思考の欠如にあることに、心ある人は気づき始めています。

一人ひとりがささやかな幸せを求める時代、もしかしたら、この道はあまり流行らないのかもしれません。

ただ「組織」を通じて力を発揮出来るようになると、個人ではできない大きな事をすることができますし、世の中の流れすら変える事が出来ます。

私自身も様々な企業活動の裏側でリーダーに伴走させていただいていますが、本当にエキサイティング。多くの若きリーダーにこの醍醐味を味わっていただき、組織や社会に道を示せるリーダーになってもらいたいと思っています。

起業し、自分の力量で地位を確立していく道

もう一つの道である、起業して自分の力量で地位を確立していく道。この道にも「哲学思考」は不可欠です。

なぜならば、周りと同じ事をしていても埋もれるだけだし、たとえ一時的に成功したとしても、すぐに資本力の大きな競合に圧倒されてしまうからです。

この道は、常に前提を疑い、成功体験を疑い、問題意識を持って変化し続け、質を高め続けなければ生き残れない道です。

もちろん、小さなコミュニティでわかり合える人達でビジネスができれば良いと考える方も多いと思います。

でも、そのような方は新しく開店した「街のそば屋さん」がどのようにして店をたたんでいくかをよく見る必要があります。

最初は物珍しさにお客さんは訪れますが、次第にそれもなくなり、一部の常連さんだけが訪れる店になります。

常連さんは「自分の居場所ができた」と心地よい気持ちになりますが、それがいつしか「一見さん」を寄せ付けない雰囲気を醸しだし、ますます新しい人はその店に入りにくくなります。

そして、何らかのタイミングで常連さんも居なくなり、そこにはいつしか「貸店舗」の張り紙が掲示されている…

そう、持続的にビジネスをするためには、常に新しい人と出会い、新しい企画を打ち立て、新しい世界を見せ続けていかなければならないのです。

それを実現するための力として「哲学思考」は不可欠です。

もちろん、コミュニティやビジネスの「サイズ感」は扱う商材やコンテンツの種類によって大小はあるでしょう、ただ「小さなコミュニティでわかり合える人達だけでビジネスができれば良い」というヌルい考えは、一見持続的なようで、実は「停滞」という恐ろしい病を呼び込み、あなたのビジネスを腐らせていきます

くれぐれもお気をつけください。

令和時代の成功クワドラント

以上のお話、図にするとこんな感じです。

この4象限は「令和時代の成功クワドラント」と名付けました。

ここまでお話ししてきたのは、①〜④の矢印のお話。組織で力をつけて(①)、哲学思考を備えたリーダーになっていく(③)「組織人ルート」と、自分で起業し(②)、哲学思考を備えた力のあるインフルエンサーとなっていく(④)個人起業ルート

この図の特徴は、自他を導く真の成功者の領域は他の3つの領域と同じ平面にはない、というところです。いわゆる「次元上昇」が起こっています(スピリチュアルの話ではないので念のため)。

組織人であっても、活躍しようと思えば哲学思考は不可欠ですし(③)、独立したビジネスパーソンであれば、哲学思考を備えているか否かは、生死を分かつぐらいのインパクトがあります(④)。

でもね、ここまでお読みいただいた皆さんに声を大にしてお伝えしたいのは、そのことさえ知っていれば、仮にあなたが右下の「何者でもない人」であっても、最初から⑤の道を進めば良いのです。

①の方向でも②の方向でも、それぞれに「強者」として力をつけていくことはできますが、今の時代、成功し続けるためには哲学思考を備えた「メタ強者」に脱皮していく必要があります。

(メタというのは「一つ次元が上の」という意味。)

であれば、最初からそこを目指せばよい。

なぜなら哲学思考をもって日常を過ごすのと、持たないで日常を過ごすのでは受け取れる情報の量と深さが違ってきます。もしかしたら最初は小さな一歩かもしれませんが、それにより蓄積する智慧は「複利」で増えていきます。

だからこそ「哲学」については、触れるのは早ければ早い方が良いのです。

いち早く積み上げて、雲の上に抜け出しましょう。

終わりに

長い文章になりましたが、ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。

いろいろな事を述べてきましたが、私は決して「西洋かぶれ」の人間ではありません。大学卒業後、11 年半、キャリア官僚としてお国に仕えてきたという意味では、一人の日本という国を愛する人間です。

明治以降、文明開化の流れの中で「和魂洋才」の名の下に、哲学もヨーロッパから輸入され、皆、懸命に哲学を学びました。しかしながら、悲しいかな我が国にとっては哲学は輸入学問。哲学の確かな伝統のない我が国においては、歴史の大きな転換点と共に、哲学は次第に人々の視野から遠ざかっていきました。

一方で、西洋文明がメインストリームを張るこの世界では、依然として西洋哲学を基盤として社会が回っています。欧米のエリートの子弟達は幼い頃から哲学に触れ、人や社会の本当の姿を知り、そして世界を支配する術を身につけていきます。

そして、私たちも知らず知らずのうちにその考え方を前提として受け入れ、その上で考え、生きています。

私たち一般人がこんな世界史的なレベルで気合いを入れる必要も無いのかもしれません。

ただ、時代が大きく揺れる中、私たち日本人も、今一度、現代の知の基盤となっている哲学を見直し、学び直し、借りものの文化や考え方に踊らされるのではなく、私たち自身が「自分達らしさ」を保ちながら、自分達の足で立って社会やコミュニティを形づくっていかなければならない時期に差し掛かっているのではないかと考えます。

その一助になればという思いも込めながら、また、その中で生きる皆様の仕事や人生が大きく飛躍する機会になればと、「西洋哲学塾」を立ち上げ、現在はそれを発展的改組して「Meta Business Academy」という講座を運営しています。

ご一緒出来ること、楽しみにしております。

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この記事を書いた人

西洋哲学塾塾長、株式会社Flora Partners代表取締役。
 
エグゼクティブコーチとして売上規模数千億〜数兆円規模の上場企業の役員〜事業部長クラスのリーダーシップ開発、及び付随する組織開発などを支援するとともに、リベラルアーツ教育家として活動。

東京官学支援機構専務理事、東京リベラルアーツクラブ上席研究員。

官僚として霞ヶ関に約12年間勤務し、北海道・沖縄対策などの地域対策や首相官邸との調整、予算規模数百億円の独立行政法人の監督などに従事してきた職歴も持つ。

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